Vol. 26 ピーター・カール・ファベルジェ(1846-1920)
ロシア皇帝のお抱えジュエラー
ロシアのサンクトペテルブルグに成功したジュエラーの息子として生まれたファベルジェは彼の生きた時代の最も有名な金細工師です。父の元で修行し、その後、フランクフルト、ロンドン、パリにて更に修行を積みました。1870年には父のビジネスを引き継ぎ、「伝説」となるエナメル・金・銀を形にすることを始めました。
1884年にロシア皇帝アレクサンドル3世に王室御用達の宝石商に任命され、この年に最初の王室のためのイースターエッグを完成します。金、銀、エナメル、宝石でできた素晴らしい卵をロシア王室は友人や親戚にプレゼントしました。
世紀の変わり目に産業化を遂げたヨーロッパは豊かな市場となっていました。ファベルジェは、シガレットケース、ヴァニティーケース、フォトフレーム、置き時計、日傘の柄、筆記具などの日用品を優雅な表現で提供しました。これらの「ファンタジックなオブジェ」には多大な需要があったので、ファベルジェはモスクワ、オデッサ、キエフ、ロンドンに工房を作ったほどでした。会社は大きなビジネスへと発展していきます。
ファベルジェの製品を所有すること自体が富とステイタスのシンボルとなり、ファベルジェの名前は洗練を意味するようになります。アメリカや西ヨーロッパの裕福な顧客層からも創作の依頼がくるようになりました。タイ国王、マハ・チュラロンコンのために作ったものは、現在でも王室のコレクションとなっています。
ファベルジェの素晴らしいエナメルの色合いはファッションの流行となりました。ファベルジェが使った144色のエナメルはカタログになり、何色かの色は大流行しました。ラズベリー・レッドはロンドンで、乳白色のピンクはパリで熱狂的に流行しました。女性たちはお気に入りのヴァニティーケースにあわせてドレスを作るほどだったそうです。
ファベルジェは彼の作品がイラストで掲載されたカタログを出版したほどです。彼の意図するところは「最も洗練されたテイストを満足させるような贅沢で高額なものだけでなく、それほど裕福ではない人たちでも手が届く安価なものも提供すること」でした。
ファベルジェは700人もの熟練した職人を雇い、ジュエラーというよりもマネージャーになっていきました。職人たちは秘密裏に働いたそうです。ファベルジェ自身が現存する作品を作ったかどうかはわかりませんが、二つとして同じもののないすべてのデザインはファベルジェがしたと信じられています。
第一次世界大戦によってロシア王室からの依頼が無くなり、ファベルジェの黄金期は中断されました。1914年には彼の工房は戦争向けの製品を作るようになります。1917年のボルシェビク革命に続いて、ソビエト政府が会社を抑えたので、ファベルジェはドイツに移住し、1920年にはスイスのローザンヌで亡くなりました。