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高品質でお手頃価格のジュエリーを買うならココ!シンプルな1カラットピアス、ペンダント、リング、セットジュエリーから、ゴージャスな一点ものまで、宝飾業界20年以上のキャリアで米国宝石学会宝石鑑定士(GIA・GG)の店長がセレクト。大人の女性が気軽に楽しめるコストパーフォーマンスの良いジュエリーをお届けします。

Vol. 1 御木本幸吉 (1858-1954)


ミキモト創業者・真珠王



御木本幸吉は、安政5年(1858)に、志摩国(現在の三重県)に生まれました。明治11年に上京し、横浜で真珠の売買を見学したことがきっかけで、生涯、真珠とかかわっていくことになります。

明治21年に英虞湾で真珠貝の養殖を始め、明治23年には上野で開催された第3回内国勧業博覧会に真珠、アコヤ貝、真珠入り物品等を出展しました。その頃の真珠は、現在の丸い真珠ではなく半円型で、しかも偶然できるものと考えられていました。

彼は、この博覧会において、審査官である大学教授から真珠は人工養殖できるかもしれないと言われ、真珠養殖の研究に取り掛かりました。4年間の研究の末、明治26年に、養殖したアコヤ貝の穀(から)の内面にコブのような半円形の養殖真珠を造り出すことに成功し、最初の特許権を得ました(特許第2670号、明治29年)

この成功をもとに、その後も円形真珠を人工養殖で造るための研究を続け、明治41年に真珠素質被着法の特許権を得て、宝飾品としての真珠の価値を高めていき、「ミキモトパール」の名前が世界中に知られるようになりました。このほかにも彼は、真珠稚貝の養殖に関する発明等によって、多数の特許権を得て、昭和29年(1954)に96才で亡くなっています。

御木本幸吉は、単に真珠の養殖と真珠貝の養殖に成功しただけではなく、真珠を宝飾市場の中心に位置させるためのあらゆる努力を惜しみませんでした。
その功績は多大なものです。

Vol. 2 キャロル・チャザム (1914-1983)


<<宝石用合成エメラルドを開発した化学者>>



キャロル・チャザムが宝石の合成実験を始めたのはまだ高校生の頃でした。サンフランシスコの自宅地下を研究室にして、ダイヤモンドを合成しようとしたのですが、爆発を起こし、怖くなった隣人たちは警察を呼んだほどでした。

その後、1929年からエメラルドの合成の研究に着手し、6年後には合成エメラルドの生産に成功。品質向上するためには更に数年を費やしました。

1938年にはカリフォルニア工科大学を卒業し、第二次世界大戦の間、デルモンテにて食品合成の研究に従事しました。戦後、チャザムは自身の合成石を世に広めるつもりでしたが、世間はまだその準備ができていませんでした。

心配になった商人たちは、隣人たちのように、法に訴えました。チャザムはその後15年間を宝石業界と役人との戦いに費やしますが、結果的には、高品質の合成石で業界と消費者の関心を得ることに成功します。

たゆまない研究とマーケティングを通して、チャザムは高級合成石の生産者として大成功を収めます。引退後、彼の設立した会社「チャザム・クリエイティド・ジェムズ」は息子たちに引き継がれ繁栄しつづけています。

Vol. 3 ピエール・ギルソン (1914-


多様な合成宝石を生み出した天才



ピエール・ギルソンは宝石合成の先駆者です。彼の会社は合成エメラルド、合成オパール、合成トルコ石、そして、珊瑚やラピスラズリなどの多様な人工宝石を手がけました。アメリカのチャザムと並んで、合成宝石の歴史に名を残す天才です。

ギルソンはフランスの窯業技術の専門家で、フランスのカレーに工場を持つ高級陶磁器会社の経営者です。大学卒業後の1935年に、家業ある陶磁器会社に入社し、技術革新をもたらしました。

キャロル・チャザムの合成エメラルドに感銘を受けた彼は、その後、本業は子供たちに任せスイスに設立した研究室で宝石合成の研究をライフ・ワークとする日々を送っていました。

ギルソンは個人の力で宝石の合成を試み、製法特許を申請せずに秘密裏に宝石の製造をしていました。

ギルソンは合成宝石の熱心な伝道師です。彼は「研究室で合成される宝石は、母なる大地が創り出す宝石にとても近く、その価値を高めるもの」ですが、「合成宝石が天然石の市場への脅威となってはならない」とも思っています。

市場での誤解を避けるために「ギルソン社で生産される合成宝石が正しい販売経路をたどれるように、研究所にて生産された宝石であるという証明書付で販売する」ことを明言しています。

ギルソンは1990年代におそらく高齢のために合成宝石の製造を止めました。その技術は窯業会社を経営する家族に引き継がれることもなく、天才の一代限りの趣味の技術として宝石の歴史に名前を残すことになりました。

Vol. 4 パロマ・ピカソ (1949-


偉大な芸術家を父に持つティファニーのジュエリーデザイナー



20
世紀を代表する芸術家であるパブロ・ピカソの娘であるパロマ(スペイン語で鳩の意味)。彼女が4才のときに両親が別れましたが、彼女は1960年代半ばまで毎年夏は父親のところで過ごしました。ピカソの家は宝物とクズ(ピカソは捨てるということをしなかった)、風変わりな家具などで溢れていたそうです。

父親という大きな影に影響されないように、パロマは子供の頃から自分らしさをもつようにしていました。初めてした仕事はフランス映画での女優で、殺人を犯す伯爵夫人の役でした。その後、アルゼンチン人の映画監督・脚本家で後に彼女のビジネスパートナーとなるラファエル・ロペス・サンチェスと結婚。

香水の広告では世界中の注目を浴びました。その後、パロマはティファニーのためにユニークなジュエリーのデザインをしています。彼女は国際的なトレンドセッターであり、また完璧なスタイルの女性として知られています。

パロマは父親にサインを求めるファンたちに囲まれて20世紀最高の芸術家と暮らしたときの興奮を今でも覚えていると言います。「あの頃に父親と一緒に過ごした日々は私にとって、とても素晴らしいプレゼントでした。引き継ぐものがあるのは魅力的なことですが、自分らしいことをするのが大切です。」

これから彼女から生み出されるものは、やはりとても「オリジナル」なものであり続けるのでしょう。

Vol. 5 クレオパトラ (紀元前69-30)


真珠を飲んでしまった!エジプトの女王



ローマ帝国の征服者にも国民にもクレオパトラの名前は恐れと嫌悪を覚えさせたものです。

クレオパトラはプトレマイオス7世の次女で、紀元前323年〜31年までエジプトを統治したマセドニア王国の最後の支配者です。彼女の名前が有名になったのはローマとのつながりからです。ジュリアス・シーザーとアントニウスの心を射止め、ローマの歴史上で決定的な役割をになうことになりますが、彼女の政治的キャリアは失敗に終わり、最後は国民からの恥辱と処罰を避けるために自殺しました。しかし、クレオパトラは、シェイクスピアやバーナード・ショーのような偉大な作家たちにより「偉大な恋人」として普遍化されました。

「ナイルの女王」は、欲深く、浪費三昧な生活ぶりと、ロマンスのための征服欲で悪名高く、贅沢を尽くした金やジュエリーを愛したことも伝説となっています。

アントニウスのために催した宴会での有名なエピソードがあります。クレオパトラはアントニウスに未だかつて無いほどの贅を尽くした宴会を開いてみせると豪語し、二人はそれができるかどうかの賭けをしました。翌日の晩餐会は素晴らしいものでしたが、アントニウスが今までに毎夜のように過ごしてきたものとほとんど変わらなかったため、自分の勝利を宣言しようとしたその時、クレオパトラは微笑みながら侍女からビネガー(酢)の入ったワイングラスを受け取り、その中に世界に二つとない最大級の真珠のイヤリング(一国の領地を買えるほどの価値あるもの!!!)のひとつを投げ込み、ゆっくりとグラスを揺らして真珠を溶かすと、飲み干してしまったのです!

言葉に詰まったアントニウスの前で、クレオパトラはもう片方の真珠のはずしてアントニウスに同じことをするようにと薦めたのですが、ここで審判が押しとどめて、この賭けはクレオパトラの勝利となったそうです。

Vol. 6 フリードリヒ・モース(1773-1839)


モース硬度を考案した鉱物学者



ドイツ人の鉱物学者、フリードリヒ・モースは、ひっかきや磨耗に対する強さを表す鉱物の硬度表を初めて開発した人です。鉱物間で硬度の違いがあることは以前から知られていましたが、鉱物学者はすべての鉱物を比べることができる目安を必要としていました。

モースは10種類の鉱物をひっかきに対する硬さでランク付けをし、硬度1のタルク(滑石)から硬度10のダイヤモンドまで、任意の番号を設定しました。ただし、この分類法は硬さの量的測定ではなくて、あくまでも順位を示すものですが、現在でも広く標準的に使われています。

モースは結晶の研究にも寄与し、19世紀の科学者たちは彼の研究成果を基に応用・発展させました。

モース硬度は現在でもジュエリーの仕事に携わる人で知らない人はいないでしょう。

モース硬度

鉱物名

和名

タルク

滑石

ジプサム

石膏

カルサイト

方解石

フルオライト

蛍石

アパタイト

燐灰石

オーソクレイズ

正長石

クオーツ

水晶

トパーズ

黄玉

コランダム

鋼玉石

10

ダイヤモンド

金剛石



Vol. 7 エリザベス・テイラー


ジュエリーと男性を愛する伝説的女優



ジュエリーと男性を愛するエリザベス・テイラーは、何度もの結婚を繰り返し、世界中で最も高価なジュエリーを所有していたことで有名です。1932年ロンドン生まれ。子役スターとして映画の仕事をはじめ、世界を魅了する絶世の美女に成長。

4番目の夫で歌手のエディー・フィッシャーと結婚していたときに「クレオパトラ」のセットでリチャード・バートンと出会います。この不倫関係はマスコミをにぎわせ、離婚に発展します。テイラーとバートンは2度の結婚を通して15年間の情熱的な日々を過ごします。世界各地に宮殿のような家を持ち、王侯貴族のような生活をしていました。バートンは彼女にセーブルのコートやヨットや素晴らしいジュエリーの数々を買い与えます。

1969年にバートンはテイラーにニューヨークのカルティエで大きなペアシェイプのダイヤモンドを110万ドル(その頃で最高額)買いました。

1978年の離婚後、テイラーはこの「テイラー・バートン」と名づけられたダイヤモンドをテキサスの石油王に280万ドルで売却しました。実は彼女はこのダイヤモンドをぶつけて「欠け」を作ってしまい、クラリティーグレードはIFからVVS1になってしまっていたのですが…

テイラーは健康問題に悩まされ続けました。1960年に最初のアカデミー賞受賞の直前に肺炎で死にかけ、1980年代には薬物とアルコール中毒に悩まされ、肥満とも戦います。

1987年にウィンザー公爵夫人のジュエリーコレクションがオークションにかけられたときに彼女はダイヤモンドのクリップを落札しています。

何年もの間、彼女はアフリカ飢餓撲滅などの社会貢献に寄与しており、エイズ撲滅基金の設立もしています。

Vol. 8 サルバトール・ダリ

妻への愛の表現として宝石彫刻を作った芸術家

サルバトール・ダリはジュエリー制作という芸術にシュールレアリスム(超現実主義)を重ね合わせたスペインの芸術家です。彼の絵画や彫刻で追及したテーマを表現した非凡なジュエリーにはダイヤモンドや貴石が使われています。彼のジュエリーはどれもドラマチックな物ばかりで、デザインのアイディアはとても斬新なうえに、加工技術も素晴らしいものです。

1904年にスペインのフィゲラス生まれ。ダリは若手芸術家としてバルセロナやマドリッドで様々なスタイルやテーマを探求し続けます。彼に多大な影響をあたえた2つのものがありました。それは、ジークムント・フロイトとパリの芸術家たちのシュールレアリスムでした。非合理性の有形化を目的とした手法「偏執狂的・批判的方法」を提唱し、主に2つ以上のイメージを重ねて描くダブルイメージの作品を描きました。

偉大な才能を持った画家であると同時に、かなりの自信家でもあり、天才であることを自称していましたが、そのほとんどはパフォーマンスでした。

マドリッドの王立アカデミーで美術を学び、1926年バルセロナのダルマウで初個展を開催し、同郷であったピカソ・ミロらの注目を受けますが、在学中アカデミーの古典主義的な教育方針から衝突を起こし、国王の命により永久追放となりました。

1929年パリ滞在時にシュルレアリスム運動に参加。卓越した技術で夢想的なイメージを描きシュルレアリスムの先進として世間から注目を集めました。その頃、ガラ・リーナと出会い結婚、第二次大戦を避けるために渡米しました。商業的な肖像画や作品を描いたために他のシュールレアリストたちから非難を受けました。大戦後は故郷スペインのフィゲラスに戻り、以後永住しました。1989年、心臓発作により84年間の生涯を閉じました。

ダリと言えば、シュールレアリスト、独特の口髭、奇矯な言動が有名ですね。有名な絵画作品としては「記憶の固執(軟らかい時計)」や「変形した肉体」などがあります。

Vol. 9 アルバート・マンセル


宝石の色の表現に使われる「表色系」の開発者


アメリカの画家、美術教育者であったアルバート・マンセルは美術を科学という分野と融合させ、双方の分野に多大な貢献をした人物です。

1858年、ボストンに生まれたマンセルは幼少の頃から芸術的才能を見せます。マサチューセッツ州立芸術大学卒業後には母校の講師となり、その後、奨学金を得てパリの芸術大学に留学、構造分析・遠近法・構図の分野で表彰されカトリーヌ・ド・メディチ奨学金を取得しローマで学びます。

帰国後、色彩表示についての研究を開始。色の組成を始めは「円」で表現し、その後、「球体」に進展させます。

マンセル・カラー・システム(Munsell color system)は、色の3属性(色相・明度・彩度)に基づいた色彩を表現する体系(表色系)の一種です。色という概念を系統的に扱うため創り出された体系です。色の名前の付け方が曖昧で誤解を招きやすいことから10進数を使って合理的に表現したいと考え、このシステムを完成させました。

1905年にその成果を「Color Notation」(表色)という本で発表しました。その後1943年アメリカ光学会(OSA)が視感評価実験による修正を加え、これが現在のものとなっています。マンセルの新版書籍「Munsell Book of Colors」は現在でも使われています。

表色系は各種ありますが、マンセルの表色系は美術、デザイン分野でよく使われ、宝石の色を表現するにも、これが使われています。

Vol. 10 ルネ・ラリック


アールヌーボーのジュエリーデザイナー


1860年フランスのシャンパーニュ地方生まれ。子供の頃に過ごした自然環境が彼の後に多大な影響を与えます。17才のときに有名な宝飾細工師に弟子入りし、ジュエリーの制作技術を学びます。その後、独立しジュエリー制作の工房を開きます。

1884年に開催された芸術博覧会に展示したジュエリーのデザイン画が「革命的」とまでに評され、ジュエリー業界のお歴々に認められます。

1885年に自分の店を持つようになってから、ラリックの創造力には火が着きました。最高の職人を雇い、それまでにはジュエリーには使われることの無かった素材の組み合わせ(ダイヤモンドや貴石とガラスや角)のジュエリーを制作します。出来上がったジュエリーは素晴らしく、オリジナルで、真似のできないもので、王侯貴族やセレブは、ラリックのジュエリーを絶賛しました。

ラリックはガラスとエナメルを使い、果物・白鳥・蛇・蜜蜂・カブト虫・蝶々など、自然からのテーマでジュエリーのデザインを描きました。

1900年頃までにはラリックの名声は世界的なものとなり、彼のデザインはアールヌーボー芸術を形づくることに寄与しました。

ジュエリーの他にも、香水瓶や建築装飾なども制作しました。オリエント急行の装飾は有名です。第一次世界大戦前にラリックはジュエリーの制作を止め、ガラス制作にシフトしていきました。

豊かな才能を発揮したラリックは1945年にフランスで亡くなりました。

Vol. 11 ココ・シャネル


ファッション・ジュエリーの世界に革命を起こしたデザイナー


ココ・シャネルは20世紀初めに有名になりましたが、彼女の革新的な考えが洋服やジュエリーに及ぼした影響は今も続いています。

ココ・シャネルはフランスの片田舎に生まれ、6才で孤児になりますが、幼少の頃のことはあまり知られていません。

1913年、シャネルはドーヴィルに小さなミリタリーショップを開店します。その後、セーター、スカートやアクセサリーも置くようになります。彼女の機能的で心地よいスタイルは、凝ったつくりで窮屈なスタイルに飽きていた裕福な顧客を魅了します。

1916年までには、シャネルルックは国際的に知られるようになっていました。1922年に発表された有名な香水No.5の成功が、ファッション、香水、コスチューム・ジュエリーを含むビジネスの基盤となりました。

1930年代、シャネルはイミテーションの宝石とファッション・ジュエリーを普及させ、ファッション産業に革命を起こしました。その頃のおしゃれな女性はそれまでの装いから、長くぶら下がったイヤリング、何連ものバングル、幾重にも重ねたパールのネックレス、ブローチに取り替えました。

シャネルは1938年に一度引退をしますが、1954年にカムバックし、新しいシャネルスーツを発表します。シャネルスーツは最も洗練されたスタイルとして、現在にも引き継がれています。

Vol. 12 ブルガリ・ファミリー


独特のデザインが魅力のジュエリーを継承


ローマに本社を置くブルガリは世界で最も権威あるジュエリーブランドのひとつです。創業者のソリティオ・ブルガリはギリシャに生まれ、若い時にイタリアに移民します。

数年をナポリで過ごした後、1881年にローマに移り、銀の皿を販売する店を開き、その後、息子たちもビジネスに加わります。次第に高級ジュエリーの分野にも進出し、イタリアを始めとするセレブリティーたちを顧客に持つようになります。ソリティオの死後、息子のジョルジオとコンスタンティーノは独特のデザインで高品質ジュエリーのブルガリスタイルを確固たるものにします。

ジョルジオの死後、彼の3人の息子たち(ジャンニ、パオロ、ニコラ)がビジネスを引き継ぎ、世界的なジュエリーブランドまでに発展させました。

Vol. 13 西太后


絶対的権力と翡翠(ひすい)への情熱を追求した清朝末期の権力者


西太后(1835-1908)は清朝の咸豊帝の妃で、同治帝の母。1861年に皇帝が崩御した後、即位した息子の後ろで摂政として政治に介入しました。同治帝が若くして崩御すると、妹の息子を光緒帝として即位させ死ぬまで権力の中枢に居続けました。

約半世紀続いた西太后の支配は、政府の長期的な堕落を深め、国の困窮と分裂を悪化させました。国民の声には全く耳を傾けず、その地位を利用しての権力欲と物欲を追求し続けました。

2000年以上にも渡って、翡翠(ひすい)は中国宮廷の正式な宝石でしたが、西太后はどの宝石よりも翡翠を愛し、自分の周りを翡翠で埋め尽くしていたほどです。素晴らしいダイヤモンド・ジュエリーの贈り物には見向きもしなかったにもかかわらず、小さくても美しい翡翠の贈り物を持ってきた訪問者は歓迎したそうです。

西太后の肖像画に描かれているのは、巨大な翡翠と真珠の髪飾り、3000個もの大きな天然真珠と素晴らしい翡翠の房のついたケープ、翡翠のブレスレット、翡翠のリング、そして指先には7センチもある翡翠のプロテクターを身に着けたものです。

西太后の食卓は、箸、茶碗、皿ともに翡翠のもの。使わない翡翠は3000個もの黒檀のジュエリーボックスにしまわれていたそうです。

中国が日本と戦うための軍備増強が必要だったときに、西太后は夏に過ごすための別荘建設に多大な費用を費やします。1900年の義和団の乱により、清朝は衰退の一途をたどります。西太后の側近たちは彼女の翡翠のジュエリーなどを盗んで売り払ってしまったそうです。

Vol. 14 ケネス・ジェイ・レーン


セレブ御用達のファッションジュエリーデザイナー


マンハッタンにあるケネス・レーンのジュエリーのショールームは業界関係者しか入れません。でも、もし入れたとしたら、素晴らしいファッションジュエリーを買えるうえに、セレブたちと鉢合わせするかもしれません。

ダイアナ妃、ジャクリーン・ケネディー・オナシス、オードリー・ヘップバーン、エリザベス・テーラー、ヒルトン姉妹、マドンナ、ニコール・キッドマン… ケネス・ジェイ・レーンのジュエリーに魅せられた有名人を数え上げたらきりがありません。彼のジュエリーが愛される理由は、着ける人の個性をより輝かせるからにほかなりません。レーンのビンテージ・ジュエリーは、クリスティーズやサザビーズなどのオークションで高値で取り引きされ、宝石並の値段で落札されたものもあるほどです。

ロードアイランド造形大学を卒業したレインは、1963年に彼自身のエレガントなファッションジュエリーのブランドを立ち上げ、現在では「最高のファンタジージュエリーデザイナー」と呼ばれています。

シューズのデザインを手がけ、当時は風変わりと思われたラインストーンを飾った靴が大人気となります。その後、ジュエリーにも手を広げ、天然石の変わりにカラフルなガラス、プラスティック、合成石を多用したものを発表し、40年間にも渡り名声は高まるばかりです。

レインが提唱しているのは、「シンデレラ哲学」。女性にはシンデレラの物語のような変身願望があり、ジュエリーを着けるのはガラスの靴を履くようなもので、ゴージャスなジュエリーは、ファッショナブルで楽しく、若くなったような気持ちさせてくれるということ。

「ジュエリーを装うには自分自身を見せることに自信を持ち、ジュエリーを恐れないことが必要」と定義します。例えば、真珠のネックレスを着けるなら、1本ではなくて8本着ける!

彼の熱心なファンの中心にいるのは、ファッション業界を動かしている人たちといっても過言ではありません。レインのファッションジュエリーは現在も世界中で多くの人たちに愛され続けています。

Vol. 15 オーギュスト・ベルヌイ


合成石を発明したフランスの化学者


オーギュスト・ベルヌイ(1856-1913)は、若い頃から父親の写真スタジオで現像の手伝いをするうちに化学への興味を持つようになりました。

17才でパリ自然史博物館、化学研究所のフレミー教授の助手となります。その頃一緒に働いていたアンリ・モワサンはノーベル賞受賞の化学者です。ベルヌイは夜学に通い、1886年に科学での博士号を取得し、その後、応用化学の教授となります。

ベルヌイは短期間フレミー教授とコランダム(ルビーやサファイアの鉱物名)のフラックス製法について研究しますが、その後、フレームフュジョン法によるコランダムの合成に成功します。彼の開発したこの製法で作ったルビーは色も透明度も素晴らしい上にジュエリーに使うのに十分な大きさがあるものでした。

1904年にはこの製法についての本を出版し、技術だけでなく、ベルヌイ法による合成ルビーと天然石との見分け方も解説しました。その後すぐにこの製法は合成石の大量生産に使われるようになりました。今日ではベルヌイ法で生産された合成コランダムは、工業製品のベアリング、研磨剤、機械時計のパーツなどに使われています。また、ベルヌイ法が応用されたものにはレーザーがあります。

ベルヌイはその後、歯科充填剤や光学機器用のガラスなどの研究開発に携わりました。

ジュエリーに携わる人々はベルヌイを「合成ルビーの父」と尊敬の念を込めて
呼んでいます。

Vol. 16 ヨハン・ウォルフガング・フォン・ゲーテ


偉大な文学者は鉱物にも精通した科学者だった


ゲーテ(1749-1832)はドイツの偉大なる詩人で、世界を代表する文学者のひとりです。彼は「最後のルネッサンス人」と称され、作家、批評家、記者、画家、劇場支配人、政治家、教育者、科学者、哲学者として多彩に活躍しました。彼の著作は科学に関するものだけでも14にものぼります。

ゲーテはドイツのフランクフルトに生まれ、ライプチッヒとストラスブール大学で法律を学びました。文学、医学、彫刻などに興味があったため、法律の勉強にはあまり身を入れませんでしたが、1771年に法律の学位を取得しました。その後、ザクセン・ワイマール公、カール・アウグストの王立裁判所に入り、友人とアドバイザーとして活躍します。

「ファウスト」は彼の著作の中でも最高傑作といわれていますが、ゲーテは詩人としての名声を得ていた一方、素人の科学者とみなされることに不満を持っていたようです。彼の科学に関する著作は方法論から色彩論理の研究にまで及んでおり、こういったものをもっと認めて欲しかったのです。彼の知識は物理、地学、鉱物学、気象学、動物学、植物学にまで及びました。

その中でも特にゲーテが強い興味を持っていたのが鉱物でした。彼は貪欲な鉱物のコレクターで18,000個もの鉱物標本を集めたそうです!多くの鉱物に関する形成、成長、結晶の大きさなどに関する理論など、詳しい記述を残しています。

「ゲータイト」という鉱物はゲーテにちなんで1806年に名づけられています。

Vol. 17 エリザベス1世


ジュエリーへの情熱をもったイギリスの女王


エリザベス1世(1533-1603)は国王ヘンリー8世と2番目の王妃アン・ブーリンの娘で、イギリスで最も偉大な君主の一人です。当時弱小国家だったイギリスを政治、経済、芸術においてヨーロッパの中心的存在にしました。エリザベスはイギリスの歴史に華やかにしただけでなく、王家の宝石コレクションを立派なものにしました。

ヘンリー8世も宝石が好きでしたが、エリザベスのジュエリーへ情熱は絶大なものでした。女王はあまりにも多くのジュエリーを身に着け、ガウンにはあまりにも多くの宝石が縫い付けられていたので、その重さにどのように耐えられたのか不思議なほどでした。

賢い交渉と権力をもってして、スコットランド、ポルトガルやバーガンディーの王家のジュエリー・コレクションから、素晴らしいものを獲得していきました。

エリザベスを誹謗・中傷するものたちは、彼女が正当な王位継承者であるかについての議論を熱く戦わせました。多くの者はヘンリー8世と2度目の王妃の結婚が無効であると考えたからです。エリザベスのライバルだったスコットランド女王メアリーが転覆を企てたとき、彼女を処刑し膨大な個人コレクションのジュエリーを我が物とします。

エリザベスはプロテスタントを国の正式な宗教とします。1588年にはスペイン無敵艦隊の侵攻を受けますが、アルマダ海戦で勝利を収め、イングランドはスペインに代わって世界貿易を一手に握るようになりました。

エリザベスは生涯独身でした。チューダー王朝は終焉を向かえ、イングランドはスチュワート王朝に取って代わられました。彼女が残したものの中で特記すべきものと言えば、それは彼女の愛して止まなかったもの「ジュエリー」でしょう。

Vol. 18 ルイ14世(1638-1715)


「太陽王」とよばれたフランス王

ダイヤモンドが王族や権力者が身に着けるものとして日の目を見たのは「太陽王」と謳われたフランスのルイ14世の統治時代のことです。

ルイ13世の息子として生まれたルイ14世は4歳で即位。幼少時の教育はジュールズ・マラザン枢機卿にまかされましたが、ルイの社交性や芸術とエレガンスを愛する心はこのときに植えつけられたものです。

20歳のときに、ルイはマザランの姪であるマリー・マンシーニと恋に落ちますが、フランスとスペイン2国間の平和のためにスペイン王の娘、マリア・テレーザと結婚しました。

マザランの死後、ルイは政府の統治を掌中に収めます。彼の個人的見地では王の権利とは実質的な独裁に等しいと考えていました。ルイはフランス陸軍と海軍の軍制を整備、次々と戦争に参加し、戦費調達のために新税を相次いで設け、また放漫財政で国家財政を苦しめ、ために国民は疲弊していきました。王妃の死後、彼は密かにマントノン侯爵夫人と結婚しました。

太陽王の宮廷の華やかさに勝るものはないでしょう。芸術を後援し、ルイはベルサイユ宮殿を建て、ラシーネやモリエールのような作家を援助、フランスの栄光を象徴するようなモニュメントや銅像を多数建造しました。ヨーロッパで探しうる最高の宝石を収集しました。1669年には112カラットもあるブルーダイヤモンド(有名なホープダイヤモンドはこの宝石からカットされたものと言われています)とその他にも44個の大きなダイヤモンドをタベルニエという貿易商から、それよりも小さめのダイヤモンド1122個をバズという貿易商から手に入れます。これによりフランス王室の宝物は7倍もの価値になったといいます。

ルイは1715年に77歳で亡くなりました。

Vol. 19 ハリー・ウィンストン(1896-1978)


伝説的ダイヤモンド宝石商

「偉大なるダイヤモンドは生きていて、話しかけてくる」とハリー・ウィンストンは言ったという。

彼は1896年、ニューヨークの宝石商の息子として生まれました。12才の時、質屋の前を通り過ぎたときに、カラーストーンが並んだ「どれでも25セント」と書かれた棚があるのに気付きました。その中からエメラルドを選んで2日後に売ると、それは800ドルになったそうです。

20才前には、ウィンストンはエステート・ジュエリーを仕入れ、ニューヨークのダイヤモンド取引所で売っていました。1932年にニューヨークの五番街にハリー・ウィンストンを開店しました。彼は1935年にヨンカーダイヤモンドを70万ドルで買うまで卸売をしていました。大不況の時代にそのような高額品を買ったことにより彼の名前は一夜で有名になりました。

それまでは、多くのディーラーが大きなダイヤモンドは好ましからざる投資と思われていましたが、ハリー・ウィンストンは大きなダイヤモンドそのものには神秘性があり、買い付けたものを、大々的な宣伝をしながら世界中の富裕層に販売していきました。ハリー・ウィンストンは60以上もの世界中の大きなダイヤモンドや有名なダイヤモンドを商いました。

プレスの注目を引いていたにもかかわらず、ウィンストンは彼の保険会社が「印刷物に写真が掲載されると保険をキャンセルする」との契約があったために、写真に撮られることを頑なに拒否しました。このことがウィンストンの神秘性を高めました。

彼のビジネスはニューヨークを本拠とする卸売と、プエルトリコやアリゾナの工房で展開されていました。1955年にはウィンストンはアンゴラのダイヤモンド購買について10年間の契約をしました。デビアスはサイトから彼を締め出す報復に打って出ましたが、その後、示談が成立しました。

1974年にウィンストンはダイヤモンド史上最大の購買に参加します。たったの一分で、ウィンストンはデビアスのハリー・オッペンハイマーとカットされていないダイヤモンド原石に2,450万ドルで交渉を成立させました。

セールスマンとしてハリー・ウィンストンと並ぶ人はいなかったそうです。あるロンドンのダイヤモンドのブローカーはこのように言っています:「彼がセールスをしているのを見るのは、最高の舞台での偉大な俳優を見ているようだ!」

ハリー・ウィンストンのジュエリーはダイヤモンドそのものの美しさを際立たせるよう、金属を見せないでダイヤモンドだけでデザインされており、これは「ウィンストニアン・スタイル」と呼ばれ、ダイヤモンド・ジュエリーの王道として知られています。

Vol. 20 ルイ・カルティエ(1875-1942)


カルティエを全盛の時代に導いた三代目経営者


美とビジネスを融合させ、ルイ・カルティエの才能は清廉さと実用性をもった新しいスタイルのジュエリーを創り出しました。

ルイの祖父であるルイ・フランソワが1847年にカルティエのジュエリーサロンをパリに創業し、ヨーロッパの名門貴族にジュエリーを御用達することにより、カルティエという名前そのものが「ラグジュアリーとクオリティー」の代名詞となりました。21歳になったばかりの1896年にルイはファミリービジネスに加わりました。

それまでにも、ロンドンとパリにあったカルティエの店は成功を収めていましたが、ビジネスをヨーロッパに限定していては、ジュエリー業界の中心であり続けられないだろうと気付きました。1909年にはアメリカに進出し、ニューヨークの五番街にジュエリー店を開きました。

8年後、カルティエは五番街653番地にあるネオルネサンス様式の邸宅のためにオリエンタルパールのネックレスを買い入れます。このドラマティックな新しいアメリカの邸宅で、モルガンやバンダービルトのような億万長者をはじめ、英国のエドワード王などの世界に名だたるセレブをもてなしました。

1910年、ロシアのバレー「シェラザード」にパリが熱狂しました。この舞台はスルタンのハーレムが多色使いのセットで、ニジンスキーとパブロヴァがリムスキー・コルサコフの曲で踊るものでした。ルイと彼のアシスタントはこの舞台に触発され、東洋のモチーフとドラマチックな色の使い方をしたジュエリーをデザインするようになりました。

キュビズムのようなモダンな芸術運動や、古代エジプト、イスラム、東洋芸術にも影響され、カルティエのデザイナーたちは、伝統的なヨーロッパの洗練、東洋の美的感性、20世紀のデザインのダイナミックさを同時に併せ持ったジュエリーのスタイルを生み出します。カルティエのジュエリーは完璧に1920年代と1930年代のアール・デコの価値を反映しました。

ジュエリーの制作方法やマーケティング手法が急速に変化したときには、カルティエは人気ありながらも独創性のあるジュエリーを創り出しました。カルティエはホープやジュビリーなどの有名なダイヤモンドも取り扱い、上流階級の顧客層を広げていきます。

ルイは第二次世界大戦勃発の頃にアメリカに移住し、67歳でニューヨークで亡くなりました。

Vol. 21 エヴァリン・ウォルシュ・マクレーン(1886-1947)


ホープダイヤモンドを所有したアメリカ社交界の名士

エヴァリン・ウォルシュが10歳のとき、父親が思いがけず成功しました。所有していたキャンプバード金鉱山ではピーク時には一日に5,000ドルもの金を産出していました。翌年、一家はコロラドからワシントンD.C.の社交界に移り住んでいきます。

若くしてエヴァリンは富の醍醐味を知ったのです。12歳で父親に頼んで通学のために馬車を買ってもらったそうです。

1908年にウォルシュはワシントンポスト社主の息子であるエドワード・マクレーンと結婚。ヨーロッパへの新婚旅行のために10万ドルを受け取りましたが、彼らの浪費ぶりではすぐに足らなくなってしまい、送金を頼んだほどでした。現金が送られてくると、エヴァリンは95カラットの「東洋の星」がセットされたジュエリーを購入しました。

2年後にパリに滞在したときに、ピエール・カルティエは彼女に数々のジュエリーとともにホープダイヤモンドを見せました。カルティエは彼女にこのダイヤモンドに関するストーリーを話し、ホープダイヤモンドが持ち主に不幸を運んでくるとの評判があることも認めました。カルティエは、マクレーンが不運のお守りこそ幸運を運んでくると信じていること、そして、彼の暗示は彼女の興味をそそると知っていたのです。カルティエの考えは正しく、結局マクリーンはホープダイヤモンドを購入したのです。

長年、マクレーンは無頓着であると評判になっていました。ある時、質屋が彼女の家を訪れ、売りたいジュエリーを見せてほしいと頼んだそうです。彼女は窓辺によりかかったままで、愛犬のグレートデン「マイク」を呼び寄せたのですが、マイクの首にはホープダイヤモンドがセットされたジュエリーが下がっていたのです!

彼女は贅沢な社交家で、彼女の催すパーティーはその時代の名士たちを楽しませたものです。また、第二次世界大戦中には、多額の寄付をしたり、個人的にもボランティアとして活動しました。

彼女の生活は豪華なものでしたが、決して幸福ではありませんでした。息子は9歳で交通事故死、夫はアルコール中毒になり精神病院で死亡、娘は25歳で睡眠薬の過剰摂取で死亡。彼女自身も時折モルヒネ依存になっていました。

エヴァリンは彼女の人生を通じて、ジュエリーを愛し、ダイヤモンドのロマンスや神秘性を高めたといっても過言ではありません。ホープダイヤモンドがエヴァリンの手元にやってくる前にも様々な逸話がありましたが、彼女が亡くなったときには、ホープダイヤモンドは世界で一番有名なダイヤモンドになっていました。

Vol. 22 カトリーヌ・ドゥ・メディチ(1519-1589)


ジュエリーを愛したフランス女王

フランス女王、カトリーヌ・ドゥ・メディチは貪欲な宝石コレクター(特にダイヤモンドと真珠)でした。

ルネサンスの時代、イタリアのフィレンツェに公爵ロレンツォ・ディ・メディチとフランス王女の間に生まれました。14歳のときにローマ教皇クレメンス7世が後のフランス国王となるアンリ2世との縁組をまとめ、後に結婚します。

彼女の結婚は「宝石の祝祭」でした。クレメンス7世は彼のティアラからダイヤモンドを一つ与えました。義父となるフランシス1世はちょうど一年前に自身のコレクションにとヨーロッパで最高で最大のダイヤモンドを手に入れたところでした。これらの宝石全部が後にはフランス王室の宝物となりました。

アンリ2世はカトリーヌが40歳のときに亡くなり、その1年後には息子のフランシス2世が亡くなりました。その後にはフランスのカトリックに宗教的自由を見出そうとするプロテスタントとの紛争が長く続きます。

Vol. 23 ルーマニア女王マリー(1875-1938)


ロシア王室のカルティエのジュエリーを愛した女王

ルーマニア女王マリーはその時代で最も美しく偉大な女性として崇められていました。素晴らしい作家、芸術家、馬術家としても有名でした。

室内装飾をこよなく愛し、宮殿のインテリアすべてをデザインし直したほどでした。また、ロシアの宝物とカルティエのジュエリーを愛し、死後にはオークションにかけられた素晴らしいコレクションを残しました。

マリー・アレクサンドラ・ヴィクトリアは英国の王女で、両親はエジンバラ公アルフレッドとロシアのマリー・アレクサンドロヴァ、祖母は英国ヴィクトリア女王、祖父はロシア皇帝アレキサンダー二世です。

1893年、17歳の時にルーマニア皇太子・フェルディナンドと結婚。

第一次世界大戦中には赤十字の看護婦としての活動が軍隊の士気を高め、彼女は国民から愛される象徴となりました。彼女の努力のおかげもあって、戦争終了後にはルーマニアの国土は2倍になっていました。

1922年10月、マリーはルーマニアの女王となりました。1927年に夫であるフェルディナンドの死後には、王位を孫のミヒャエルに譲ります。マリーは公の立場から引退をし、自伝を含む文筆活動をして余生を過ごしました。

Vol. 24 フォルチュナート・ピオ・カステラーニ(1793-1865)


古代ジュエリーの技術「粒金細工」を復刻させたジュエラー

1815年には、フォルチュナート・カステラーニはローマでフランスやイギリス様式のジュエリーを制作している宝飾店経営者でしたが、1820年代後半までに、古典的なジュエリー(特にエルトリア様式)に対する彼の情熱はジュエリーのファッショントレンドを創り出すまでになっていきます。

彼のキャリアで転機となったのは1828年にローマ近郊の墓から出土したエルトリアの金装飾品を鑑定する機会に恵まれたことでした。粒金細工(グラニュレーション)という神秘的なエトルリアの技術はカステラーニの心を捉えたのです。何千もの小さな金の粒が滑らかな金の表面に繊細に並べられていることに魅了されたと同時に困惑しました。それからというもの、カステラーニは粒金細工の秘密を発見し、この美しい技術を使って自社のジュエリーを制作しようと決めたのでした。

ある日、エルトリア人の製法に似た方法を使っている小さな村で農民のグループを見つけ、すぐにその農民たちを彼の店に雇うことにしました。この農民たちがカステラーニに教えたのが粒金細工の方法そのものであったのかは定かではありませんが、何か似通った方法をもたらしたに違いありません。

カステラーニが復活させたジュエリーは金とフィリグリーで作られ、その後、すぐに古代のジュエリーのデザインと技術を真似て、寸分違わないレプリカを制作しました。出来上がったものは全く新しくもなく、クリエイティブでもありませんが、金細工そのものに対する姿勢が革新的だったのです。カステラーニのジュエリーは純粋で、贅沢で、洗練され、独自性のあるものでした。

カステラーニは粒金細工の謎に近づきはしたものの、解決したわけではありませんでした。それでも、カステラーニの復刻ジュエリーが数十年にも渡ってヨーロッパ、イギリス、アメリカに衝撃を与えたことは事実です。彼の影響力は今でもイタリアのジュエリーに及んでいるといっても過言ではないでしょう。

Vol. 25 サラ・バーンハート(1844-1923)


ジュエリーを愛したフランスの舞台女優

偉大な女優でスタイルセッターであったサラ・バーンハートは、「世界の八番目の不思議」と呼ばれていました。痩せていて、脆く、病弱なサラは生涯を通じて、死とリスクとともに生きました。

1862年にサラはコメディー・フランセーズに入りますが、先輩女優を殴ったことで辞めざるをえなくなります。プレスはこぞってこのストーリーを書きたて、彼女はパリの話題の中心になります。

革新的なオデオン劇場に出演するようになってから、サラはその演技だけでなく、ライフスタイルと恋愛でも有名になります。贅を尽くした接待をし、お金をたくさん使い、猿・ライオン・プーマなどの珍しい動物を集めて見せていたそうです。

サラはよく劇場の衣装や、いつも着ているチンチラの毛皮を羽織ってプレスの写真におさまっていましたが、完璧な装いにするためには、必ずオパールのセットされたジュエリーをしていなければ納得しなかったそうです。オパールは彼女の誕生石で、この宝石の人気を取り戻そうとしていました。クレオパトラ役で舞台に立ったときには、オパールがセットされた蛇のモチーフのコイルタイプのブレスレットなどのジュエリーをしていました。

サラの舞台女優としての世界的な成功と私生活での贅沢は一生涯続きました。70才代のはじめに、以前の事故が原因で感染していた右膝が壊疽し、切断せざるを得なくなりました。

サラは1923年に78才で亡くなりました。弔問客は数千人にも至ったそうです。

Vol. 26 ピーター・カール・ファベルジェ(1846-1920)


ロシア皇帝のお抱えジュエラー

ロシアのサンクトペテルブルグに成功したジュエラーの息子として生まれたファベルジェは彼の生きた時代の最も有名な金細工師です。父の元で修行し、その後、フランクフルト、ロンドン、パリにて更に修行を積みました。1870年には父のビジネスを引き継ぎ、「伝説」となるエナメル・金・銀を形にすることを始めました。

1884年にロシア皇帝アレクサンドル3に王室御用達の宝石商に任命され、この年に最初の王室のためのイースターエッグを完成します。金、銀、エナメル、宝石でできた素晴らしい卵をロシア王室は友人や親戚にプレゼントしました。

世紀の変わり目に産業化を遂げたヨーロッパは豊かな市場となっていました。ファベルジェは、シガレットケース、ヴァニティーケース、フォトフレーム、置き時計、日傘の柄、筆記具などの日用品を優雅な表現で提供しました。これらの「ファンタジックなオブジェ」には多大な需要があったので、ファベルジェはモスクワ、オデッサ、キエフ、ロンドンに工房を作ったほどでした。会社は大きなビジネスへと発展していきます。

ファベルジェの製品を所有すること自体が富とステイタスのシンボルとなり、ファベルジェの名前は洗練を意味するようになります。アメリカや西ヨーロッパの裕福な顧客層からも創作の依頼がくるようになりました。タイ国王、マハ・チュラロンコンのために作ったものは、現在でも王室のコレクションとなっています。

ファベルジェの素晴らしいエナメルの色合いはファッションの流行となりました。ファベルジェが使った144色のエナメルはカタログになり、何色かの色は大流行しました。ラズベリー・レッドはロンドンで、乳白色のピンクはパリで熱狂的に流行しました。女性たちはお気に入りのヴァニティーケースにあわせてドレスを作るほどだったそうです。

ファベルジェは彼の作品がイラストで掲載されたカタログを出版したほどです。彼の意図するところは「最も洗練されたテイストを満足させるような贅沢で高額なものだけでなく、それほど裕福ではない人たちでも手が届く安価なものも提供すること」でした。

ファベルジェは700人もの熟練した職人を雇い、ジュエラーというよりもマネージャーになっていきました。職人たちは秘密裏に働いたそうです。ファベルジェ自身が現存する作品を作ったかどうかはわかりませんが、二つとして同じもののないすべてのデザインはファベルジェがしたと信じられています。

第一次世界大戦によってロシア王室からの依頼が無くなり、ファベルジェの黄金期は中断されました。1914年には彼の工房は戦争向けの製品を作るようになります。1917年のボルシェビク革命に続いて、ソビエト政府が会社を抑えたので、ファベルジェはドイツに移住し、1920年にはスイスのローザンヌで亡くなりました。

Vol. 27 ジョージ・フレデリック・クンツ(1858-1932)


ピンク色が美しい宝石「クンツァイト」は彼にちなんで名づけられました

ニューヨーク育ちのクンツは多くの鉱物を収集していました。1879年には宝石試験の熟練が認められティファニーに就職し、1907年から亡くなるまで副社長を務めました。クンツは新しい宝石の鉱山を発見するよう奨励してきました。クンツはティファニーの商品にするために、また、裕福な宝石コレクターのために、宝石を捜して広く旅行しました。

クンツはアメリカ政府のためにも働きました。1883年〜1909年には、米国地学調査のために宝石担当の特別エージェントを務めました。1900年には米国国勢調査の中の宝石に関するデータ収集を監督しました。

クンツは1889年のパリ万博でアメリカの鉱物展示とティファニー宝石コレクションの双方を担当し、ティファニーコレクションで金メダルを、北米の真珠に関する論文で銀メダルを、その他の論文で特別賞を受賞。弱冠33歳での快挙でした。その後、米国水産委員会のために真珠を調査し、数回の国際博覧会で米国鉱山省の代表を務めました。

報道関係者の間ではクンツはジュエリーと宝石に関するファッションやコレクション、ノベルティーの権威として知れ渡っていました。有名になったのはニューヨーク市の公園保護運動や野生動物や歴史記念物保護の活動でです。

宝石はやはり彼の最大の興味対象で、アメリカ、メキシコ、ヨーロッパ中の鉱山や鉱物コレクションを訪ねてまわりました。カリフォルニアのサンディエゴへの旅行中にスポジュミンという鉱物のピンクの変種を発見し、その後、彼の功績を称えて「クンツァイト」と名づけられました。

Vol. 28 フルコ・ディ・ヴェルデューラ(1898-1978)


イタリア貴族出身のジュエリーデザイナー

フルコ・ディ・ヴェルデューラの名前を知っている人は今日では多くないかもしれませんが、彼の驚くべきジュエリーデザインの数々は独特の光を放っています。ヴェルデューラはイタリアのパレルモ近郊にシチリア上流階級の裕福な貴族として生まれ、由緒ある環境で育ちました。幼少の頃から絵画の才能と動物への深い興味を見せていましたが、それが後に彼のジュエリーデザインに反映されます。

ヴェルデューラは1927年にパリに赴き、ココ・シャネルのテキスタイルデザイナーとなります。シャネルは新しいジュエリーのラインを開発していたのですが、彼のテキスタイルデザインがとても独創的であることに着目し、彼をチーフ・ジュエリーデザイナーにしました。彼の最初のプロジェクトはマルタ十字に宝石がセットされたエナメルのバングルでした。彼は紋章的なものを好み、その後のデザインでも多様しました。

ヴェルデューラは個人的にもビジネスでも裕福な有名人たち(例えばウィンザー公爵夫人のような名士)と親交を深めていきました。1939年にはニューヨークの五番街に自分の会社を設立しました。彼のジュエリーだけでなく、機知に富んだ魅力的な人柄と上品さもあり、お店はすぐに繁盛し、上流社会でのお気に入りとなりました。

ヴェルデューラは人気のある伝統的な宝石とプラチナのジュエリーデザインを、コインや結び目のあるロープネックレスのような古典的なテーマに置き換えました。また、金を使い、エナメルの人気を復活させました。 幼少の頃に好きだった動物は美しい動物デザインのジュエリーとなりました。

ヴェルデューラのデザインは、多くのデザイナーに多大な影響を与えました。パロマ・ピカソもそのうちのひとりです。ファッション・ジュエリーの王様と呼ばれているケネス・ジェイ・レーンはヴェルデューラのデザインをジュエリーの本物を買えない人たちのために、コスチューム・ジュエリーで作りました。

長期にわたって生産的で成功し続けたヴェルデューラですが、1973年にビジネスを仕事仲間のジョセフ・アルファノに売却し、引退し、5年後にロンドンで亡くなりました。

Vol. 29 ヴァン・クリーフ&アーペル


王侯貴族やセレブ御用達の高級ジュエリー店

一世紀以上にも渡ってヴァン・クリーフ&アーペルは王侯貴族、富裕層、著名人御用達のジュエリーブランドとしての高い名声を維持してきました。アーペルのジュエリー会社は1870年にレオン・アーペルと3人の息子たちがパリのヴァンドーム広場に開いた小さな店から始まりました。

20世紀初頭にアルフレッド・ヴァン・クリーフが会社に加わった後、店の素晴らしい仕事はすぐに王侯貴族、セレブ、名士たちを魅了するようになりました。まもなく、この小さなお店(現在のヴァン・クリーフ&アーペル)はヨーロッパで最も高級なジュエリー店となりました。

1934年にヴァン・クリーフ&アーペルは革命的とも言える「インビジブル・セッティング」(ミステリー・セッティングとも呼ばれます)で特許を取得しました。これは完璧にぴったりと合うようにカットされた宝石が全く隙間なく、そして留めている金属が全く見えない石留方法です。1939年にニューヨークで開催されたワールドフェアで、初めてこの驚くべき技術が公開されました。反響があまりにも凄かったため、ヴァン・クリーフ&アーペルはニューヨークにサロンを開くことになりました。この方法は大変難しく、精巧な技術と長時間(最高の職人が1週間に20個〜30個しか留められない)を要するため、一年間に20個位のジュエリーしか制作できないそうです。

長期に渡って、ヴァン・クリーフ&アーペルは歴史的にも目を見張るべきジュエリーを買い入れています。その中でも特筆すべきは、皇帝ナポレオンが贈った「ジョセフィーヌのティアラ」で、ニューヨークのお店のウィンドウに時々飾られます。

Vol. 30 ジーン・シュランバーゼー(1908-1987)


ティファニーの「ニュールック」を代表するジュエリーデザイナー

フランスに生まれたジーン・シュランバーゼーは第二次世界大戦中にアメリカに移住し、ニューヨークの五番街にジュエリーのお店を開きます。1955年にティファニーが彼の会社を吸収してからは、ジュエリーデザインに集中するようになり、上品でありながら目立つジュエリーを求める新興富裕層のために素晴らしいカスタムジュエリーを創作しました。

シュランバーゼーは顧客の一人一人に似合うようなジュエリーをデザインしました。新しい顧客がやってくると、彼はその人に完璧に似合うものを創り出すために、その人の好み、ライフスタイル、迷信、身体的特徴などを徹底的に研究しました。

彼のデザインに使われている、天使、鳥、花、タツノオトシゴ、ヒトデなどの自然のモチーフはバロック的な豊かさとモダンなフォルムを併せ持っています。また、彼はエナメルのジュエリーを復活させました。シュランバーゼーのゴールドにエナメルのブレスレットとイヤリングは1950年代に最も人気のあったステイタスシンボルです。

数多ある有名なシュランバーゼー作品の中でも最高と称されるのは、ペガサスのピンです。これには、エメラルド、アメジスト、ダイヤモンド、ゴールドが羽のある伝説の馬が飛び立つ様子を表現しています。シュランバーゼーは20万ドル〜50万ドルもする宝石に彩られたボックスもデザインしました。

シュランバーゼーは1970年代半ばまでティファニーで活躍し、1987年に80歳でこの世を去りました。

Vol. 31 アレクサンドル2世(1818-1881)


「アレクサンドライト」は彼の最高のメモリアル

1830年、ロシア皇太子の12歳の誕生日にウラル山脈で新しく、美しく、とても稀少な宝石が発見されました。皇太子は後の皇帝アレクサンドル2世、そして新しい宝石は「アレキサンドライト」と名づけられました。この宝石はクリソベリルの変種で変色効果のあるものです。

太陽光の下では緑っぽく、白熱光の下では赤っぽく変わるアレクサンドライトのように、アレクサンドル2世は異なった環境では異なる特性を見せました。君主としては、厳格な独裁主義者である一方、ロマンティックで自由な一面もあったそうです。

19世紀のロシアは近代工業から立ち遅れた農業国でした。領主の土地で農奴が動力もなく働くという封建制度に依存していたのです。アレクサンドル2世は1861年に農奴解放令を発し、ロシアの資本主義の道を開くことになりました。

これと並行して、地方議会の設置・陪審制の採用などの司法制度の整備・大学の自由の拡充・徴兵制の施行など、後世の史家から「大改革の時代」と評される近代化政策を行いました。

しかし、不十分な農奴解放への農民の不満と、それを批判し、専制政治を打倒しようとする運動の激化、ポーランドの独立反乱などに直面すると、警察・軍隊による力ずくの弾圧でこれに対応するとともに、改革を後退させ、専制政治を強化していきました。このような政策に対して国民のロマノフ王朝への反発が強まり、度重なる爆弾テロが起こりました。

1881年3月1日、ロシア皇帝アレクサンドル2世はテロリストの投じた爆弾により暗殺されました。アレキサンドライトという宝石が彼の最高のメモリアルとなりました。

Vol. 32 ヴィクトリア女王(1819-1901)


ジュエリーを愛した、この時代のファッションリーダー

12歳のヴィクトリアが将来女王になると言われたときに、彼女は即座に「私は立派になる!」と答えたそうです。その言葉の通り、ヴィクトリア女王はイギリス王室の人気を取り戻し、その時代で最も強力なファッションリーダーとなりました。

ヴィクトリアは母親に育てられ、1838年に女王として戴冠されました。1840年にいとこにあたるアルバート王子と結婚。 幸せな結婚生活を送ります。女王として活躍する一方、ヴィクトリアとアルバートは家庭を繁栄させ、9人の子供をもうけています。

彼女はジュエリーに対して並々ならぬ情熱を傾け、たくさんのジュエリーを身に着け、頻繁に贈り物にもしたそうです。彼女のジュエリー・ファッションの与える影響があまりにも強かったので、彼女の選んだスタイルが何週間も国中を夢中にさせたそうです

ヴィクトリアのお気に入りの子供たちのミニチュア肖像画を付けたブレスレットは、1840年代には肖像画のブローチの流行となりました。1861年、最愛の夫、アルバートの死後、ヴィクトリアはモーニングジュエリー(mourning jewelry、喪に服す装身具)だけを身に着けました。彼女の統治時代を通して国民全員がモーニングジュエリーを着けることが流行となりました。

夫の死後、ヴィクトリアは思い出の品や写真などに囲まれた部屋で過ごすようになりました。ヴィクトリアは病に倒れてから苦しまずに短期間で逝きました。彼女の死に際し、作家のヘンリー・ジェイムズは「国民は母親が居なくなったような淋しさを感じている」と書いたそうです。

Vol. 33 ジョルジュ・ブラック(1882-1963)


モダンジュエリーのデザインにも革命を起こしたキュビズムの画家

19 世紀の画家でデザイナー、ジョルジュ・ブラックの作品は、「芸術」という言葉に新しい局面を見出しました。フランス生まれのブラックはパリでアートを学びました。1906年までに彼と数人の突出した芸術家たちは、活気に満ちた色合いと先例のない自由な形に特色のある絵画スタイルを形成します。敵意をもった批評家たちはブラックと彼の仲間のことを「フォーブ」(野獣)と呼んだため、この有名な運動は「フォービズム」と名づけられました。

その後、ブラックはパブロ・ピカソと共にキュービズムの先駆者となっていきます。丹念にファセットされたような多面的なイメージをもったキュービズムは芸術の歴史において最も影響力のある運動のひとつとなりました。ブラックはこの運動の最も有名なリーダーのひとりでした。彼は彫刻、ステンドグラス、グラフィックスなどでも名を馳せます。

1950年代から1960年代にかけて、ブラックはモダンジュエリーのデザインにも革命的な影響を及ぼします。ブラックが81歳のときに、133点にも及ぶ彼の美しいジュエリーデザインがパリ装飾美術館で展示されました。そのほとんどは古典的なテーマをキュービズムのスタイルに解釈したものでした。 その中の多くは薄くカットしたジャスパー、ロードクロサイトラピスラズリターコイズなどの上に表面仕上げを施したゴールドをあしらったものでした。

Vol. 34 クレア・ブース・ルース(1903-1987)


劇作家・著述家・政治家・そして、ジュエリーコレクター

政府関係者、文化人、上流階級との広い交流があったことで知られているクレア・ブース・ルースは20世紀に最も尊敬された素晴らしい女性のひとりです。30歳で一流女性誌「バニティーフェア」の編集長となり、その後すぐに、タイム誌の創業者、ヘンリー・ルースと結婚します。彼女は劇作家としても成功しただけでなく、第二次世界大戦中にはヨーロッパでライフ誌の戦争記者として活躍しました。

1942年には政界に進出し、上院議員を2期、アイゼンハワー政権の駐イタリア米国大使を3年間務めました。その後、彼女は共和党員としても、ローマカトリック教徒としても活躍しました。1983年にはアメリカ合衆国から最も名誉ある勲章「自由勲章」を授与されます。

裕福なルース夫人は素晴らしいジュエリーのコレクターとしても有名です。彼女のジュエリーコレクションはブルガリカルティエジーン・シュランバーゼー、ティファニー、ヴァン・クリーフ・アーペルヴェルデューラ、ウェブなど、著名なデザイナーやスタイルのものばかりでした。

女性は既にビジネス、法律、医学、文学などの分野で活躍の場を得てきていると信じ、彼女は科学分野の若手女性研究者を助成する基金を設立すると遺言に記しました。

著述家としても有名な彼女は素晴らしい名言を残しています。
「人生に絶望的状況は絶対にありえない。状況に絶望する人間が存在するだけだ。」

Vol. 35 J.P.モルガン(1837-1913)

モルガナイト」は彼にちなんで名づけられました

J.P.モルガンはその時代の世界中で最も影響力のある財界人でした。彼は米国を財政破綻から個人的に救った人物です。10億ドルもの資金を集め、ニューヨーク株式取引所の壊滅から救いました。

J.P.モルガンはコネティカット州に生まれ、ヨーロッパで育ち、スイスとドイツで教育を受けました。1857年に彼は銀行の会計係の職を得てニューヨークに移ります。 ロンドン在住のアメリカ人銀行家であるモルガンの父が投資銀行を設立したことが彼の富と名声への道を開きました。

モルガンは決断力のある大胆な商取引でも評判を得ました。彼の会社は大変強力だったため、他社との合併や組織改変に至り、1912年までに、彼は112の会社で341の役員の地位を持ち、そこからの利益は220億ドルを超えていました。

生涯を通じて社会貢献者であり続けたモルガンは監督派教会、病院や学校への多大な寄付をしていました。彼の設立したニューヨークのモルガン図書館には25,000冊の珍しい本が集められています。

1871年に、モルガンはニューヨークのメトロポリタン博物館設立に寄与しました。エジプトの遺物に魅せられたモルガンは中東訪問をしたり、古代遺物のギャラリーを寄付するなどして、博物館の古代史研究に拍車をかけました。モルガンの死後、彼の本と有名な芸術品のコレクション(ほとんどはメトロポリタン博物館に所蔵されました)は6000万ドルもの価値があったそうです。

モルガンの宝石好きも伝説となっています。ベリルのピンク色の変種である「モルガナイト」はモルガンにちなんで名づけられました。彼はティファニー社のジョージ・F・クンツが宝石収集旅行の資金として何百万ドルも寄付しました。これにより、世界最大で最高の宝石コレクションが出来上がったのです。1900年のパリ万博のためにクンツが収集したモルガン・コレクションとして、2,176個の宝石と、宝石と2,442個の真珠で作られた芸術装飾品が展示されました。その他には、アメリカ自然史博物館のモルガン・ティファニーの宝石コレクション、モルガン・バーネット・鉱物・隕石コレクション、パリ自然史博物館のモルガン宝石・鉱物コレクションがあります。

Vol. 36 ジャクリーン・ケネディ・オナシス(1929-1994)


オナシスが贈ったジュエリーは数百万ドル!

ジャクリーン・ブーヴィエはニューヨーク州、サザンプトン生まれ、裕福な上流階級の環境で育ち、ヴァッサー大学に進み、ジョージワシントン大学を卒業します。

1952年、タイム・ヘラルド紙のカメラマンとして働いていたときにマサセッチューセッツ州選出の上院議員だったジョン・F・ケネディのインタビューを担当したことで出会い、1953年に結婚します。ケネディが第35代アメリカ合衆国大統領になったとき、上品なファーストレディーとして脚光を浴びました。

1963年にケネディが暗殺されてから5年後、彼女はギリシャの海運王で億万長者のアリストテレス・オナシスとの再婚し世界をアッと言わせます。ジャッキーとの結婚に際し、裕福なオナシスは「顕著な消費」という言葉に新しい意味を与えました。結婚して1年目だけでオナシスがジャッキーに贈ったジュエリーは410万ドルにも上ったそうです。その中には100万ドルのルビーとダイヤモンドのイヤリングもありました。

ジャッキーが贈られたジュエリーの中で最も有名なものは、サファイア、ダイヤモンド、ルビーのそれぞれが、月、地球、アポロ11号を表したというイヤリングです。これはオナシスがデザインしたもので、アテネのゾロタス・ジュエリーの会社から結婚後のオナシスの愛顧に対してジャッキーに贈られました。

ケネディとオナシスの関係は次第に冷えていきましたが、オナシスが亡くなる1975年まで一緒に過ごしました。ジャッキーは後年、ニューヨークで編集人を務めるなどしていましたが、1994年に亡くなりました。

Vol. 37 ヘンリー8世(1491-1547)


英国でも屈指の教師たちに教育されたヘンリー8世は学識が深く英国王室史上最高のインテリといわれています。色白で、知的、強壮、長身の君主は臣民の上にそびえたつような存在でした。複数の言語を理解し、詩をたしなみ、音楽にも造詣が深く、馬術、剣術などのスポーツにも優れた才能を発揮しました。

ヘンリーの統治は1509年から1547年。初期には人気がありましたが、彼のイメージは絶対王政、政治的陰謀、6人の王妃などにより次第に色あせていきました。彼の離婚願望はローマカトリック教会と決裂するための言い訳でした。ヘンリーは貴族階級の権力を減らすことで王の権力を強めました。

教会との決裂後、彼は僧院や大寺院の宝物を没収しました。ヘンリーのジュエリーの趣味は彼のエゴが反映されていました。真珠には特別な情熱をもっており、たくさんの真珠をローブ、コート、帽子、靴などに縫い付けていました。また、妻たちやお気に入りの臣下たちに与えていました。金と真珠のイヤリングに対する彼の好みは王国内の裕福な男性たちの間で流行しました。

晩年にはヘンリーの健康状態は次第に悪化し、病気で不幸のうちに死亡しましたが、彼は最後まで自分自身のことを献身的な君主と信じて疑いませんでした。

Vol. 38 ヘレン・フォーチュノフ


ヘレン・フォーチュノフは偉大なアメリカのサクセスストーリーを実現した女性です。ニューヨーク五番街にある有名なフォーチュノフの現在の成功は彼女の行動力と先見の明のおかげといえます。

ヘレンは1953年にビジネススクールを終了後、フォーチュノフの創業者の息子、アラン・フォーチュノフと結婚しました。4年後、家族の世話をしているだけでは飽き足らず、夫のビジネスパートナーになりました。

彼女は冗談交じりに「ジュエリーのスーパーマーケット」と呼ぶコンセプトを創り出しました。これは利益の幅を薄くし続けることで、多様な顧客にアピールできるような広い品揃えが可能になるというものです。このコンセプトの成功が1979年のフォーチュノフニューヨーク五番街店の開店に導きました。フォーチュノフはニュージャージーとロングアイランドにも店舗があります。

彼女にはとてつもない仕事の許容量があるといわれ、それを6人の子供たちに引き継いでいます。

近年では、彼女は自分自身のジュエリーコレクションを発表しました。これは手に入れやすい価格のクラシックなジュエリーです。その他にもマスマーケット向けの時計なども開発し成功を収めています。

Vol. 39 スタンレー・マーカス


スタンレー・マーカスはしばしば「マーケティングのプリンス」と呼ばれてきています。マーカスは1905年に小売業を営む家系に生まれました。母親が父親を店に訪ねて行っている間に、母親は彼をニーマン・マーカスの従業員に預けていったので、そこで小売業の1から10までを学びました。

後にマーカスを有名にするマーケティングの概念の試みは、ハーバード大学在学中に始めた通販カタログのサービスでした。彼の書く勧誘の手紙が効果的だったこともあり、間もなく業績はうなぎのぼりとなりました。後年、このマーケティング手法は何百万ドルもする商品を販売する手助けとなりました。

マーカスは1926年に正式にニーマン・マーカスに採用され、上流階級とキッチュな商品を結びつけるマーケティングのエキスパートとして名を上げ始めました。彼はどのような商品にも客はいる(特にその頃石油景気に沸くテキサスには)ことを発見しました。彼は「店ではそれがどのようなものであれ、すべての贈り物のリクエストに応じるべきだと主張したので、ニーマン・マーカスは「どのようなものでも手に入れられる店」となりました。

第二次世界大戦が終戦する前に、マーカスは高級ジュエリーとファッション・ジュエリーの別部門をオープンしました。また、金糸のかつらや金銀のチェスのセットのような商品も扱いました。

1950年に父親の死後、マーカスはニーマン・マーカスの社長兼CEOとなりましたが、新しいアイディアを出し続けました。クリスマスの季節にニーマン・マーカスが顧客に販売する特別な商品をメディアに毎年知らせて欲しいとの要望から、ニーマン・マーカスでは有名なクリスマスのカタログに、例えば自家用潜水艦や18金の縫い針などの珍しい商品を掲載し始めました。

マーカスは芸術品や本のコレクターでもあり、著作も残しています。名誉会長として活躍していた彼ですが、2002年に亡くなりました。

Vol.40 アレクサンドル3世(1845-1894)


最初のインペリアル・イースターエッグをファベルジェに注文

アレクサンドル3世は1881年から1894年までロシア皇帝として在位しました。農奴解放などで「解放皇帝」と知られていた彼の父親とは異なり、徹底的な抑圧政策をとる専制君主でした。内政面では政府の規制を強化し、専制君主制に敵対するすべての者を排除するなどの反動政治を行いました。

また、アレクサンドル3世はロシア国粋主義とロシア正教への擁護でも記憶されています。

1884年に皇帝はカール・ファベルジェに最初のインペリアル・イースターエッグを注文しました。この素晴らしい作品は名金細工師でありジュエリー作家であった彼のトレードマークとなります。精巧に装飾された金と白いエナメルでできた卵は皇帝から妻への贈り物でした。これが認められたことで、ファベルジェは毎年新しい卵を創りました。ファベルジェはロシア皇室御用達となり、世界的名声も得ることになります。その後10年間に渡り、アレクサンドル3世はファベルジェにそれぞれがユニークな11個の装飾イースターエッグを注文しました。

彼の息子であるニコラス2世はこの伝統を引き継ぎ、1895年からロシア革命で皇室が亡くなる1917年まで母親や妻にファベルジェの卵を贈りました。

Vol. 41 カルロ・ジュリアーノ(1831-1895)


ルネッサンスのデザインを取り入れた19世紀を代表するジュエリー作家

イタリア生まれのカルロ・ジュリアーノは1860年頃にロンドンに移りました。そこで、有名なジュエリーデザイナー、アレッサンドロ・カステラーニの店のマネージャーになり、ジュエリー作家としての訓練も受けます。その後、カステラーニはジュリアーノがロンドンでジュエリー会社を設立する手助けをしますが、ジュリアーノはその後もカステラーニの創作に多大な影響を受け続けました。

その頃、古代エジプトやギリシャの発掘が貴族階級や中産階級に古代やルネッサンスのモチーフを使った衣類やジュエリーの流行をもたらしていました。ジュリアーノが創作した素晴らしいネオクラシックなジュエリーの人気は過熱し、これでジュリアーノは有名になりました。

ルネッサンスの宝飾作家やエナメル作家に取り付かれたジュリアーノは彼らのデザインやテクニックを自身のジュエリーに取り入れました。宝石はデザインの中心というよりも装飾として使われました。ブリリアントカットはカボションの次といった具合です。1874年までにジュリアーノはとても成功したので、ピカデリーに宝飾店を開店しました。

ジュリアーノが死んだとき、彼を成功に導いた人たちから忘れられることはありませんでした。彼は遺言で、お世話になった顧客に小さなジュエリーを残しました。また、英国政府にも素晴らしいジュエリーのコレクションを残しましたが、それらはヴィクトリア・アルバート美術館に所蔵されました。しかし、1899年にこれらのジュエリーは盗難に遭ってしまい、当時の栄光を語るものはほんの一部しか残っていません。

Vol. 42 ハワード・カーター(1873-1939)


ツタンカーメンの墓を発掘したエジプト考古学者

若いハワード・カーターが初めてエジプトに行ったときには、その後、ツタンカーメンの墓を発掘して有名になるとは思いもよらないことでした。イギリス生まれのハワード・カーターは17歳のときにエジプト調査基金の壁画模写担当としてエジプトに向かいました。この旅でカーターは生涯続く考古学への興味を持つことになります。彼はエジプト考古学の大家、フリーダーズ・ピートリー卿のもとでエジプト文明について学びました。

1900年、エジプト考古局主席監督官となったカーターは「王家の谷」の発掘で初めて成功を収めましたが、1903年にはエジプト政府との見解の相違で考古局を退職しました。

1906年、カーターはジョージ・ハーバートの王家の谷発掘隊の監督となります。第一次世界大戦で発掘は中断されましたが、1922年11月に第18王朝のファラオで幼少の頃に即位し18歳で亡くなった「ツタンカーメン」の墓を発掘しました。

墓を初めて開けたとき、埋葬室には完璧に保存された黄金のベッド、椅子、馬車、棺が、現れました。壮麗な王座は宝石で輝き、金銀で覆われていました。棺は3つの装飾された棺で3重になっています。一番内側の棺は人型をした黄金で出来ており、少年王であることをあらわすように彩色されています。

驚くほどの数のジュエリーと彫刻されたアミュレット(護符)がミイラを覆っていました。その中でも特筆すべきものはミイラの腕に巻かれた13のブレスレットでした。黄金のスカラベとラピスラズリのものや、聖眼ウジャをかたちどったものなどです。

ツタンカーメンの墓の発掘は10年間続きましたが、その経緯についてはカーター自身の著作「ツタンカーメンの墓」に記されています。

Vol. 43 ジーン・ムーア(1910-1998)


世界一と言われたティファニーのディスプレイ・デザイナー

ジーン・ムーアはシカゴ芸術大学で絵画を学んでいましたが、世界恐慌の影響で働かなくてはならなくなりました。彼は花屋で働き始めましたが、そこで彼のアレンジメントがウィンドウ・デザイナーのジム・バックレーの目に留まります。バックレーがI.ミラーズ靴店のディスプレイ・マネージャーになったとき、ムーアをアシスタントに抜擢します。

ムーアはI.ミラーズの後に、バーグドルフ・グッドマン、ボンウィット・テラーへと活躍の場を移ります。1955年にティファニー会長のウォルター・ホーヴィングから店のウィンドウ・ディスプレイを任せたいと雇われました。 そのときホーヴィングが言ったのは「君が美しいと思うものだけをデザインすればいい。売れるようにとは考えることはまったく無い。それは僕たちがすることだよ。」

ムーアのジュエリー・ウィンドウ・ディスプレイ理論はシンプルなものでした。「はじめにするべきことは人の足を止めることだ。ウィンドウを高額なジュエリーでいっぱいに飾ることでわくわくするような気持ちにさせることはできない。見る人におもしろいと思わせなくてはならない。」

ムーアのディスプレイはニューヨークのなかでも最も人が足を止めるものでした。彼はしばしば調和しないと思われる2つのものを混在させました。例えば、スパゲッティにダイヤモンドのジュエリーをくくりつけるなどです。彼のデザインの代表的なものはとてもシンプルなもので、例えば大きな氷(プラスティック)にダイヤモンドを挟んでいるトングを立てかけてあるといったようなものです。

ムーアは、ポール・テイラー舞踏団の衣装デザインも担当しており、いつかは映画制作もしてみたいと話していました。彼が信じていたのは「仕事を楽しいと思ってやらなければ、良いものはできない。」ということでした。

Vol. 44 ユージニー皇后(1826-1920)


フランス皇帝ナポレオン3世の妃、ユージニーは、おそらく19世紀最大のダイヤモンドとエメラルド・ジュエリーのコレクターで、 富の象徴としてのダイヤモンドの人気を高めました。

スペイン貴族の娘としてグラナダに育ったユージニーは、ナポレオンがフランス皇帝に即位した1年後に妃に選ばれました。

夫であるナポレオン3世が彼の有名な伯父であるナポレオン・ボナパルトの帝国を再建することを夢見ていた一方で、ユージニーはダイヤモンドを身にまとっていました。フランス皇后はクラウンジュエルを着けることが法律で禁じられていましたが(おそらくマリー・アントワネットの過度の行いに対する反応と思われます)、ナポレオンはユージニーにジュエリーを貸し出し、彼女はそれらを自分のものにしていました。

彼女は500万ドルの価値といわれたリージェント・ダイヤモンドをもっており、ギリシャスタイルの冠にセットされたものを時折身に着けていました。熱心なジュエリー収集家な彼女はフランス革命後の混乱時に大半が紛失されたフランスのクラウンジュエルを再度、不滅の宝物としました。

ユージニーの素晴らしいコレクションには1200個のブリリアントカット・442個のローズカットのダイヤモンドがセットされた1863年製の冠があります。彼女が身に着けていたダイヤモンドの櫛には9本のダイヤモンドの飾りが肩まで垂れ下がり、「ダイヤモンドの滝」と周囲の人たちから呼ばれていたそうです。

ナポレオン3世の病状悪化により大臣たちに権限委譲をするようになり、世界中で最も光り輝いている皇后がいることを光栄に思うようになります。ユージニーはジュエリーを手に入れることに熱心で、それはアメリカの新興財閥に勝るほどでした。

1871年、ナポレオン3世の軍はプロイセンのウィルヘルム1世とビスマルクとの戦いに敗れました。ユージニーはフランス軍敗戦の可能性を見越しており、終戦前にジュエリーのほとんどを宮殿から持ち出していました。

皇后はナポレオン3世が失脚するとフランスから逃亡し、1871年にイギリス、ケント州のチセルハーストに移り住みました。彼女はたくさんのジュエリーを持ち続けていましたが、フランスにも多くを残してきました。皮肉なことに、フランスのクラウンジュエルは1887年にオークションで販売されました。

ナポレオン3世はイギリスで1873年に亡くなりましたが、彼の美しい妃はその後約50年も生き続けました。

Vol. 45 女帝エカテリーナ(1729-1796)


ロシアの女帝エカテリーナ2世はダイヤモンドを愛することがどれだけ富と権力と共にあるかを示す良い例です。エカテリーナは14歳でロシア皇太子の結婚相手に選ばれました。この結婚は見せ掛けのもので、即位後すぐに彼女の夫は彼女を追放しようとの陰謀をめぐらしますが、エカテリーナは自分を支持する近衛隊やロシア正教会を背景に、宮廷革命で夫を退位させ、女帝の地位につきました。

エカテリーナは教会の財産を国有化させることでロシアの宝物を豊かにし、ロシアを大国へと導くことになる再生、教育、領土拡大の方針を設定しました。長期に渡る彼女の統治の間に20万平方マイルの領土が併合されました。

エカテリーナはダイヤモンドとジュエリーの偉大なるコレクターで、ロシア王室の宝物は3倍にもなりました。彼女の即位のために作られた王冠は重さ5ポンド(約2.5kg)で4,936個のダイヤモンドがセットされたもので、ヨーロッパに存在するもののなかで最も高価な装飾品といわれていました。

彼女の愛人であったグリゴーリ・オフロフ伯爵は、彼女が別の愛人を作ってしまい、その寵愛を取り戻そうと「オルロフ・ダイヤモンド」を贈りました。エカテリーナはオルロフに宮殿を与えましたが、寵愛が戻ることはありませんでした。後年、彼女は以前の恋人であった軍人ポチョムキンと統治上のパートナーとなりました。独善者でうぬぼれが強かったエカテリーナは、死ぬまで、権力、快楽、そしてダイヤモンドへの情熱を追い求め続けました。

Vol. 46 ダイヤモンド・ジム・ブラディ(1856-1917)


アメリカでのダイヤモンド人気の火付け役

貧しいアイルランド人として生まれたジェイムズ・ブキャナン・ブラディは非凡な才能のセールスマンでした。アメリカの鉄道が大陸横断するようになった時期に、ブラディは鉄道列車の販売で1000万ドル以上の財産を築きました。第一次世界大戦中、彼はフランス政府に38,000輌の列車を一度に販売しました。

ブラディは、1ヶ月間、毎日違うモノグラムのジュエリーをセットで所有していました。その中でも「輸送セット」は2548個のダイヤモンドと宝石で飾られた列車、貨物車、乗務員車でした。彼は2万個以上のダイヤモンドを個人的に所有し、時々2万5千ドルものジュエリーを着用していました。

極端に気前の良いブラディは、仕事上の知り合いや出会った女性たちに花やジュエリーを振りまきました。生涯独身でしたが、女優のリリアン・ラッセルの大ファンだった彼は、彼女に金張りでフレームにダイヤモンドをはめ込んだ自転車をプレゼントしましたが、これは1万ドルしたと噂されていました。

彼が亡くなった時に残された遺言で、最も手の込んだジュエリーは数人の親しい友人に相続されました。その他のジュエリーや財産は慈善事業に寄付されました。第一次世界大戦の終わり頃、通貨が量的に少なかったためダイヤモンドや宝石の評価額が低かった時でも、彼の所有していたジュエリーは200万ドルと鑑定されたほどでした。

Vol. 47 モーリス・ゼール(1901-1995)


ダイヤモンドとジュエリーの販売革命を起こしたジュエリーチェーン創業者

モーリス・ゼールはロシアからアメリカにやってきた移民で、ダイヤモンドとジュエリーの販売革命を起こした人として知られています。広告と分割払いでの販売を初めて導入することにより、ゼールズは世界でも最大のジュエリーのチェーンストアになりました。

ロシアのシェレショフという小さなユダヤ人街に生まれたモーリス・ゼールは、7歳の時に移民でごった返した船に乗り大西洋を渡りました。テキサスのフォートワースで過ごしていましたが、7年生のときに落ちこぼれ、叔父のサミュエル・クルーガーのジュエリーショップで働くようになりました。

1922年、21歳のときにゼールはテキサスのグラハムに彼自身の最初のジュエリーショップを開店しました。彼の考えは労働者階級を含む出来る限り広範囲な顧客に目を向けてもらうことでした。当初は「わらの中の七面鳥」を舗道で踊るというようなものでしたが、次第にそれも洗練されたものに変わっていきました。 ブームとなった1920年代に、彼はその頃には斬新だった分割クレジット払いと組み合わせた新聞広告を積極的に展開した先駆者でした。

大恐慌の最悪な時代を終わると、ゼールは優秀な従業員を昇格させ店長にしたうえで、店舗の拡大をし始めました。旅行で訪れた街を歩いて回り選んだ場所に次々と新店舗を開店していきました。ゼールズのジュエリーショップは1945年には13店舗でしたが、モーリス・ゼールが引退した1971年には1223店舗となっていました。

1969年、彼の功績を記念して、ゼールは434.60カラットのダイヤモンド原石を購入し、そこから、130.27カラットの「ゼール・ダイヤモンド」がカットされました。

Vol. 48 ベンヴェヌート・セリーニ(1500-1571)


ベンヴェヌート・セリーニは、フィレンツェのジュエリー職人であり、彫刻家でした。

1500年にイタリアのフィレンツェに生まれたセリーニは音楽家にしようとした父親の努力に反抗し、金細工師に弟子入りしました。すぐに彼の才能は金細工師としてだけでなく彫刻家としても突出したものであるとわかりました。彼は成功し、次第に宮廷からの要望で教皇や王族のために素晴らしいジュエリーや装飾品をデザインしました。

セリーニの創作はきわめて流動的で、その細部にわたるまで鮮明な細工は技巧的にも素晴らしいものでした。その後、彼はフランシス1世のために働くことになり、パリに移り住みました。そこで、贅を尽くしたジュエリーの数々を制作し、それが後にはフランス王室の宝物の基盤となりました。また、彼はイギリス国王、ヘンリー3世のために働いた芸術家・職人のうちの一人でもあります。

ルネッサンスの時代には、一人の芸術家がジュエリーのデザインをし、他の人がそれを制作するのが一般的になってきていましたが、セリーニはこれには反論していました。「ジュエラーがジュエリーを制作するには、デザインをよく理解していなくては、見るに値するものが作り出せない。」

セリーニの作品で最も有名なものは、ウィーン美術史美術館所蔵の「レダと白鳥」、フランスのシャンテリーにあるコンデ美術館所蔵の「アポロの馬車」などがあります。

Vol. 49 マリリン・モンロー(1926-1962)

「ダイヤモンドは女の子の親友」と1953年の映画「紳士は金髪がお好き」の中でマリリン・モンローは24.04カラットのダイヤモンド「バローダの月」のジュエリーを身に着けて歌いました。愛情とダイヤモンドの密接な関係を称えたこの映画で彼女はスターになりました。

マリリン・モンローの本名はノーマ・ジーン・モーテンセン。女優の卵にすぎなかった彼女は、赤い絹の布にヌードで横たわった写真が公開されると、その後すぐにプレイボーイ誌にも載るようになりました。

美しくておバカさんという配役で端役に甘んじていたモンローですが、1950年公開の2本の映画「アスファルト・ジャングル」と「イヴの総て」で評論家からもその演技に注目されるようになりました。1953年公開の「紳士は金髪がお好き」で彼女の人気はハリウッドでもトップクラスになり、「百万長者と結婚する方法」で主役を努めると世界中での名声を得ました。

1955年、大ヒット映画「7年目の浮気」では再び魅惑的な女性を演じました。1956年の「バスストップ」ではシリアスな役を演じ、「王子と踊子」ではローレンス・オリヴィエと共演、1959年の「お暑いのがお好き」ではトニー・カーティスとジャック・レモンと共演しました。

私生活ではスーパースター野球選手ジョー・ディマジオと結婚しましたが、たったの9ヶ月で離婚。1956年には劇作家のアーサー・ミラーと結婚しますが、美と頭脳の結婚としてゴシップをにぎわせました。

この時代の誰よりも、マリリン・モンローは第二次世界大戦の恐怖や犠牲に疲れていた人々が、楽しもうとして、お金を使い、ダイヤモンドに象徴され、映画スターに表現されるライフスタイルを追うための想像力を掻き立てました。1962年8月5日にマリリン・モンローは睡眠薬の多量摂取で亡くなりました。

Vol. 50 ヘンリー・モース(1826-1888)

ダイヤモンドの理想的カッティングの基礎を築いた

一世紀以上も前、ダイヤモンドの最も重要な価値基準は重さであると思われていたヨーロッパでの考えに、ダイヤモンドのカッティングで静かに革命を起こしたのがヘンリー・モースです。

父親から刻印の修行を受けたモースは、その後、ジュエリー制作に転じ、24歳のときに、ダイヤモンドや宝石を輸入し、自分のジュエリーショップを開店しました。1860年に、自分の店で使うダイヤモンドをカットするために、アムステルダムで修行をした2人の移民を雇い、アメリカで最初のダイヤモンド研磨工房を設立しました。彼の工場は世界でも最高水準であることで知られるようになりました。彼のリカット(より良いカッティングを施す)は評判になり、アメリカ中からだけでなく海外からも多くの依頼が来るようになりました。

モースは、ヨーロッパのカッティングのスタイルはできる限り重さを保つために美しさを犠牲にしていると思い、不満を感じていました。モースはボストン・ヘラルド紙での告知でヨーロッパの通念を完璧に打ち破りました。曰く「カラットでダイヤモンドを買うのは、馬をポンドで買うようなものだ!」

この言葉を裏付けるように、モースは彼自身の創り出したカット(後にマルセル・トルコウスキーが提唱した「アイディアル・カット」に近いもの)を発明しました。残念なことには、彼の工場のオランダ人の研磨職人たちはこのアイディアに賛成しませんでしたが、信念のもとに秘密裏に23人もの職人を雇い2番目のショップを開店しました。

モースは若いアメリカ人の職人を彼の方法で訓練しました。アメリカ人職長のチャールズ・フィールドは、蒸気で動くダイヤモンドの研磨器械を発明し、世界初のダイヤモンドカッティングのためのアセンブリーライン(流れ作業)を可能にしました。これは、ヘンリー・フォードがこのコンセプトを有名にする何年も前のことでした。

モースの成し遂げた偉業の中でも主なものは、その頃一番大きかった「デウェイ・ダイヤモンド」をカットしたことです。その後、アメリカのダイヤモンド研磨はニューヨークに移り、モースの初期の名声は衰退していきました。彼は1888年に62歳で亡くなりました。

Vol. 51 アウグスタス強王(1670-1733)


1694年、24歳のときに、ジュエリー・芸術・権力・女性を愛するアウグスタス強王は、ローマ帝国のドイツ州にあたるザクセン選帝侯になりました。自身の影響力を強化するために、29歳のときにはポーランド国王に即位し、宗教もプロテスタントからローマカトリックに改宗しました。 彼は絶対君主制の制定を試み、ポーランドの領地の大半を“自称”連合国に譲渡しました(そのせいで、彼の統治時代はポーランドの歴史上最悪のものとなりました)。

ザクセンでは彼は成功者でした。フランスに逃亡したプロテスタントに信仰の自由を許し、経済を強化し、工場を建設し、芸術を奨励しました。また、ドレスデンをヨーロッパでも最高に壮麗な場所にしました。

フランスのルイ14世の宮廷を崇拝していたアウグスタスは、ジュエリーや芸術品を収集しました。ルイ14世のように、彼はいくつものジュエリーのセットを持っており、その中には素晴らしいダイヤモンドがセットされた剣を含む「ダイヤモンド・スイート(ひと揃い)」がありました。また、ムガール帝国をミニチュアで再現したものは、金と銀に4909個のダイヤモンド、164個のエメラルド、160個のルビー、その他にも多種多様な宝石でできていました。

彼の主張により、ザクセンはロシアのピョートル大帝とスウェーデンを攻撃しましたが、ポーランドはこの戦争への参加を拒否したため、1704年にアウグスタスは王位を追われることになりました(5年後には再度即位しました)。15年後に彼は収集した宝物(在庫表は141ページにも上ります)を貯蔵するための特別な貴重品貯蔵室を作らせました。

彼のコレクションは6フィート(1.8メートル)もの厚さの壁の後ろに貯蔵されましたが、この壁が元々緑色をしていたので、「緑の丸天井(グリーンヴォールツ)」と呼ばれるようになりました。アウグスタスは陶磁器コレクションを含む宝物を展示するために複数の美術館をドレスデンに建設する計画をたてていましたが、実現する前に63歳でワルシャワで亡くなりました。

Vol. 52 アグネス・ソレル(1422?-1450)


アグネス・ソレルはフランス国王の愛人として王位での背後の権力を持って政治的な影響をもって支配した初めての女性です。また、最初にダイヤモンドのジュエリーを身に着けた女性としても知られています。

貧しい貴族の家系に生まれたアグネス・ソレルは1437年にフランス国王シャルル7世の目に留まりました。最初に彼が彼女を宮殿に招待したときには、彼女はジャンヌ・ダルクの精神のもとに彼の誘いを断りました。これはシャルルに畏敬の念を抱かせました。

それでも、彼女は次第に国王のもとに通うようになりました。批評家たちは彼女のことを美しさだけで低脳な女性と嘲笑いました。国王の母親であるヨランデ・オブ・アラゴンがアグネスが国王にした政治的助言のもとになったといわれています。

アグネスはシャルルにパリの宝石商で貿易商のジャック・クールを彼の財政顧問にするようにと説得し、その後、クールは英国造幣局の長官となりました。彼はアグネスに感謝の印としてダイヤモンドのジュエリーを贈りましたが、これは彼女に悪評をもたらしただけでした。

28歳の若さで亡くなったアグネスはジュエリーの歴史の転換期に参画したともいえます。ダイヤモンドは王侯貴族の権力や富の象徴だけではなくなり、美しさを表現する装飾品で愛のかたちものになったのです。

Vol. 53 ファルーク王(1920-1965)


この時代では最も偉大なるダイヤモンドのコレクターであったエジプトのファルーク王は、贅沢を愛した浪費家で、政治に対する怠慢でエジプトの君主制を失墜させました。1940年代から50年代には「ファルーク王のように金持ち」という諺があったほどで、これは富をひけらかすという意味でした。

ファルークは1920年にアーメッド・フアド国王の息子としてカイロに生まれました。熱心なイスラム教徒で、英語、フランス語、アラビア語を教えるイギリス人家庭教師によって隔絶された環境で育てられました。

聡明な子供だったファルークは14歳のときには既に「ベテランの重み」をもって儀式上の任務をこなすようになっていました。15歳のときにイギリスに留学しましたが、彼の礼儀作法、知性、スポーツの才能に、イギリスのジャーナリストたちは「世界中で最も完璧に育てられた男の子」と称したそうです。

ファルークの父は第二次世界大戦勃発直前に亡くなり、17歳の息子に王位と5千万ドルの財産を残しました。ファルークは模範的な王として活動し始めましたが、美しいものへの執着が大きくなるにつれて政治活動への欲求は次第に減少していきました。

彼の買ったものの中で最も変わったものは1906年製の金にダイヤモンドのファベルジェの卵です。ハリー・ウィンストンは彼に100万ドルで125カラットのエメラルドカットのダイヤモンド(ジョンカーダイヤモンドからカットされた一番大きなダイヤモンド)を売りました。また、ファルークは彼の2番目の妻に70万ドルのエメラルドと110万ドルのダイヤモンドをウィンストンから買いました。彼のコレクションには26カラットの「スター・オブ・エステ」もありました。

ファルークは王としての公務を怠り、政府に堕落が浸透するのを許したことで批判されました。1952年、軍のクーデターにより王位を剥奪されました。彼は財産としては金の延べ棒を携えてカプリ島に逃亡しました。ファルークはエジプトに戻れる日を待っていましたが、1965年にモナコで亡くなりました。享年45歳でした。

Vol. 54 ジュディス・オスマー(1940- )


天然石に最も近いといわれている合成石の開発者

1960年代に航空機会社の研究者として働くかたわらで、ジュディス・オスマーはレーザー研究のためにフレーム・フュージョン法での合成ルビーを作り始めました。後に、彼女は様々な合成石を育てるのにフラックス法を使いました。

1983年、オスマーと物理学者のヴァージニア・カーターは、「ラマウラ・ルビー」と呼ばれる合成ルビーの製造会社「J.O.クリスタル株式会社」を設立しました。このルビーは合成ルビーの中で最も天然に見えるものと言われていました。

オスマーは彼女の編み出した製法の詳細を極秘にしていましたが、高温フラックス法だと知られています。他のフラックス法と違って、オスマーの製法では種となる結晶を使わず、フラックス溶液がゆっくりと冷えてゆくにつれて、結晶の自発的な核形成が行われていくと報じられています。

彼女の製品は天然石に本当に似通っているので、オスマーは天然石と合成石を見分ける方法を開発するために1年間GIAで働きました。

「ラマウラ」合成ルビーの他に、J.O.クリスタル株式会社は、熱水技術を使って製造した「リージェンシー」合成エメラルドを販売しています。

Vol. 55 エドアルド・カミーユ・フーシュ(1889-1961)


最高の模造真珠といわれる「マヨルカパール」の開発者

エドアルド・カミーユ・フーシュは、初めて模造真珠を工業的に生産した彼の父親、エドアルド・ヒューゴ・フーシュから「完璧な」模造真珠への夢を相続しました。彼の父は1890年頃にパリでこの仕事を始めました。第一次世界大戦中にビジネスは繁盛し、1920年に工場を現在の所在地であるマヨルカ島に移しました。

マナコール社の模造真珠は広く世界中の市場で受け入れられましたが、完璧というには程遠いものでした。父親は亡くなったときに社長であった息子にその夢を託しました。

第二次世界大戦中、ほとんどの国が模造真珠の製造を中止していました。これによりマナコール社は市場を独占するかたちとなり、需要は供給を遙かに超えていました。しかし、戦後になると日本製の安価な大量生産品が世界中の市場に出まわりました。これらはせいぜい金属質か真珠母貝のコーティングを施した銀のビーズに似たものでした。これによりフーシュは、より天然の真珠に近く、より良い模造真珠を創り出すことに集中するようになりました。

その後、多くの時間、努力、資金を費やし、1952年にフーシュと仲間の科学者たちはとうとう成功を収めました。彼らの生み出した製法は、魚の鱗から抽出した「天然パールエッセンス」と名づけた物質をビーズに幾層にも覆い、真珠のような外観を作り上げるものです。

今日では「マヨルカパール」は最高の模造真珠と言われています。高品質の天然真珠に「てり」が非常に似通っているからです。この「てり」は褪せることがなく、色も変化することがありません。香水、湿気、温度の変化にも耐久性があります。フーシュは彼の父親の夢を実現したといっても良いでしょう。ジュエリーの世界はこのことをもちろん認めているのですから。

Vol. 56 ジェイムズ・スミソン(1765-1829)


スミソニアン博物館の礎を築いたイギリス名家の末裔

世界でも最大級の研究機関である「スミソニアン博物館」を設立したのはアメリカに一度も足を踏み入れたことのない人でした。ジェイムズ・スミソンはイギリス貴族の家柄にフランスで生まれました。父親はノーザンバーランド公爵、母親はイギリス国王ヘンリー7世の末裔であるエリザベス・メーシー。

スミソンはイギリスに移り、1786年に化学と鉱物学で優秀な成績を収めオックスフォード大学を卒業しました。22歳で王立協会のメンバーに選ばれ、生涯を通じて科学の発展に貢献しました。ヨーロッパ各地で過ごすうちに、著名な科学者たちと知り合いになります。

スミソンは生涯独身で、子孫は残しませんでした。また、生涯を通じて科学やその他の分野でも名声を博することはありませんでした。しかし、死に際して、母方の家系から相続した莫大な財産で歴史に名を残しました。

スミソンは所有していた不動産を甥に残しましたが、その遺言には「甥が相続人無しに若くして亡くなった場合には、財産はアメリカのワシントンD.C.にスミソニアン博物館という名前で知識を拡大・普及する機関を設立するために使うこと」と記されていました。

スミソンは一度もアメリカに行ったことは無かったので、彼がなぜアメリカに遺産を残したのかを推測するほかありませんが、彼の目的は明確でした。それは、生きた証を残すこと。スミソンが書き残したものの中には、「自分の体にはイギリスで最も素晴らしい血が流れているが、ノーザンバーランドという称号が消滅し忘れられたとしても、私の名前は人々の記憶に生き続けることができる」

彼の考えはどれだけ正しかったことでしょう!一年間に何百万人もの人々がスミソニアン博物館を訪れています。また、多数の科学者たちに研究のための費用や手段を提供しています。また、スミソニアン博物館は米国が所有しているすべての鉱物学・地質学の標本を管理している唯一の機関です。

スミソンはイタリアのジェノアで亡くなり、埋葬されました。1904年にスミソニアン博物館の役員会はスミソンが埋葬されている墓所が壊されることを知り、彼の亡骸をスミソニアンにあるチャペルにもってきました。

Vol. 57 ワシントン・レベリング大佐

スミソニアン博物館の宝石・鉱物コレクションの大半を寄付

ワシントン・レベリング大佐はアメリカでも最高レベルのエンジニアです。また、彼は鉱物学に最も寄与したパトロンとしても知られています。

レベリングはペンシルバニア州のサクソンブルグに生まれました。大学卒業後、エンジニアとして父親のしていた有名なつり橋の建設に参加します。南北戦争の間、エンジニアとして陸軍で働き、大佐の地位にまでなりました。

戦後、彼はブルックリン橋の建設計画をしていた父親の会社に再度入社し、建設中に父親が亡くなったため、仕事を引き継ぎました。橋が完成する前に、水面下に使われていた圧搾空気の詰まったケーソンに曲がりが見つかり、この建設の監督を辞めざるを得なくなりました。

現役を退き、富と時間があったレベリングは宝石・鉱物の収集を始めました。最終的に、彼の「趣味」は16000点以上の標本コレクションとなりました。彼は世界中からあらゆる種類の宝石・鉱物を集めましたが、多くのものは非常に美しく、大きかったとのことです。

レベリング大佐はすべての標本について、それが何であり産地がどこであるかを把握していたそうですが、彼のコレクションをカタログにはしませんでした。宝石のサンプルはトレイにきれいに並べられ、その時代で最高の鉱物学者のコメントが添えられていました。

晩年、レベリングは宝石・鉱物だけに集中した生活を送るようになりました。彼は珍しい宝石サンプルを研究・分析のためによく貸し出していました。レベリングはアメリカ鉱物学会の理事となり、1924年には副会長となります。死の直前には、彼は4万5千ドルを月刊誌「アメリカン・ミネラロジスト」に寄付しています。

視力が弱まってきたときに、彼は「もう宝石や鉱物を見ることができないので私の人生は終わったようなものだ!」と記しています。彼の死後、息子はおそらくアメリカで最大の個人所有の宝石・鉱物コレクションのすべてをスミソニアン博物館に寄贈しました。一夜にして、スミソニアン博物館の宝石・鉱物コレクションは「良好なレベル」から、「世界レベル」になりました。

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